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第三十五回 「命の終わらせ方」

私の母は94歳。
老人ホームでの骨折がきっかけで、
1年半前から寝たきり状態になった。
老人ホームから病院に移って以降、どんどん認知症が進行している。
自分の年齢どころか、私の年齢もあやふやで、
いつまでたっても30代の子育て真っ最中だと思っている。
57歳だと伝えると、目を丸くする。
夫のことを聞くので、とうに亡くなったと伝えると、
伝えるたびに
「あら、あんた、可哀想に。」と涙ぐむ。

時には、私の名前が出てこないこともある。
「ああ、ここまで出かかっているのに。ヒントちょうだい。」
と言われたときは、切ないのに笑えてくるという
複雑な気分だった。

先日は、私に妙に敬語を使うので不思議に思い、
「ねぇ、私のこと誰だか分かってる?」
と聞いたら
「どなたやった?」
と聞き返された。
覚悟はしていたものの
ついにというか、とうとう
こんな日が来たかと息を飲んだ。
「お母ちゃんの娘やがいね」
と、軽い感じで伝えたのだが、
「あら、あたしに娘っておった?」
と返されたときは、愕然とした。

「長男の○○兄ちゃん、次男の※※兄ちゃん、
そんで末っ子のあたし、チーボや。」
あえて、子どもの頃呼ばれていた愛称で伝えてみたが
いまひとつ、納得しない母。
その日は、諦めて帰宅した。

次回、見舞ったときは
顔を見るなり嬉しそうににっこり笑うので
「私、誰かわかる?」と訊ねてみたら
「チーちゃんやろ。わかるわいね。」
と、しっかりと娘時代の私の愛称で呼ぶ。

そんな母だけれども、
自分の娘時代の記憶はとても鮮明だ。
東京で暮らした娘時代は、
母にとって本当に幸せだったのだろう。
苦労させられた父のことや、
厄介だった親戚づきあいのこと、
慣れない職場で意地悪されたことなどは、
以前はよく話しに出てきたが、
この頃ではほとんど口にしなくなってきた。

いろんな記憶のなかを行きつ戻りつ、
どんどん自分には必要のないものや、
イヤな記憶から自由になって、
身軽になってこの世を旅立つために、
人は認知症になるのだろうか。

そんな、母だけれども
変わらず言い続けていることがある。

「もう、充分長生きした。早く死んでしまいたい。」

これは、認知症を患う前からよく口にしていた。
その時は、てっきり
そんなことを言って同情をひいて
「そんな事言わないで、長生きしてね」
と言われたいからだと思っていた。

しかし、この頃
どうやらそうではないらしいことに気がついた。

元気なときから、母はつねづね
「わけがわからなくなって、おむつして寝たきりになって
 いろんな管につながれて生きているのはイヤだ」
と言っていた。

保険証いれのなかに、
「私の延命治療は望みませんから」
と自筆で書いて、判を押した便せんをいれていた。
入院するときに、容体が急変したときの対応について、
病院側と、その手紙をもとに
どこまでの処置をしてもらうかという話し合いをもった。

今は、まだ口から栄養をとれているが、
胃ろうはやらないことになっている。
口から栄養をとれているとはいえ、
誤嚥性肺炎のおそれがあるため、
食事はすべてミキサー食。
心臓が悪い母のために、塩分制限がされている。

好物のお寿司や、板チョコや、和菓子を
食べることができない。

「生きていても、な~んにも楽しいことなんてない」
「人間、簡単には死ねないもんやねぇ。
 もう疲れた、生きとることに。」
そう言われて、返す言葉もない。
「私が寂しくなるから、もう少し頑張って生きててね」
としか言えない。

母を見ていると、自分の老後を考える。
私は、どう老いて、どう死んでいくのだろうか。

母が入院するときに、
「延命治療は望みません」という覚え書きがあったことで
あまり悩まずに、病院側と話し合いができた。

私もせめて、書いておこうと思った。
ネット上に、こんな雛型があったので
ダウンロードしてみた。
最後の一文に
「家族内の決定権優先順位私の意思を代弁してもらう権限を○○に与えます」
とある。

しかし、はたと気がついた。
娘とは絶縁している。
私には家族がいない。
これは、いったい誰のためのものなのだろう。
私に意識がなくなったとき、
私の命の終わらせ方は、
いったい誰が決めるのだろうか。

仕方がないので、とりあえず家族の名前を空欄にしたまま、
自分の名前を記入して
財布にいれて持ち歩くことにした。

命の終わらせ方くらい、自分自身で決めておきたい。

- Profile -

東 千絵

東 千絵 (ひがし ちえ)

「プロダクション・アーニング」代表。CM・番組ナレーション、イベント出演、司会、映画・ドラマの方言指導などを手がけるかたわら、地元の演劇集団K-CATに所属。
電子書籍「そうだったのか、日本食」など、ライターとしても活躍の場を広げている。

バックナンバー

10月1日 第三十七回 「またね!」
9月1日 第三十六回 「苦手は、悪知恵で乗りきった」
8月1日 第三十五回 「命の終わらせ方」
7月1日 第三十四回 「お酒と私」
6月1日 第三十三回 「千里の道も一歩から」
5月1日 第三十二回 「女ごころの最後の悪あがき」
4月1日 第三十一回 「ドラマオーディション体験記」
3月1日 第三十回 「逃げ道が見つからないので、きんかんの甘露煮」
2月1日 第二十九回 「そのドアを開けてはいけない」
1月1日 第二十八回 「正月支度」
12月3日 第二十七回 「劇処 シャッフルステージ」
11月1日 第二十六回 「乗っかりそびれたハロウィン」
10月4日 第二十五回 「女って、生きているかぎり闘い続けるものなのよ」
9月3日 第二十四回 手塩にかけたナレーターたちのデビュー
8月1日 第二十三回 大人、大人、言いすぎじゃないの?
7月5日 第二十二回 靴が見つからない
6月8日 第二十一回 地獄の抑止力
5月3日 第二十回 最後まで笑顔
4月3日 第十九回 桜を見ずに逝った人
3月1日 第十八回 うるう年の薔薇
2月1日 第十七回 奥手な女子の初バレンタイン
1月2日 第十六回 愛しの近江町市場
12月1日 第十五回 どのツラさげて
11月1日 第十四回 結婚式の思い出
10月1日 第十三回 輝きの秘密は、言わぬが華
9月1日 第十二回 魔女と仙女と魔法使い
8月1日 第十一回 去っていった古女房
7月1日 第十回 恥ずかしかった誕生日の夜
6月1日 第九回 撮影裏ばなし
5月1日 第八回 歌うシンデレラと、歌えない仙女
4月1日 第七回 台湾、満喫、満足、満腹の旅
3月1日 第六回 熟年サラリーマンのプラトニックラブ
2月1日 第五回 報われないけど、やり甲斐のある仕事
1月1日 第四回 泣きたいときは泣いてもいいのか
12月2日 第三回 持てあました、夢見る権利
10月30日 第二回 煙草とトワレ
10月1日 第一回 ヒロインはいつもリカちゃん