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第二回 煙草とトワレ

「だからね、急に気になりだしたんだってば。」

彼女は、昼下がりのカフェで、その可愛らしい顔に、深い眉間のしわを浮かべた。

「今までは、全く平気だったの。むしろ、いい匂いだと思ってたくらい…。
それがこのあいだ抱きしめられた時に、彼のシャツにしみこんだ煙草の匂いが『あ、イヤだな』って思ったの」

小さくため息をつく彼女に、私は占い師のように断言した。

「他に好きな人、できたでしょ?」

彼女は、もともと丸い目を、もっと丸くしている。
女は、好きな男の匂いならどんな匂いも心地良い。
イヤだと感じたのは、心が離れたからに違いない。

「……うん。」

彼女は小さく頷いてから、ぽつりぽつりと新しい恋について話しだした。
煙草の匂いの話をしたのは、きっとこの話がしたかったのだろう。
四年近く付き合っている煙草の彼を嫌いになったわけではないが、新しく出会った彼に
会うたびに惹かれていくのが止められないという。

「あたし、香水とかつける男、キライだったはずなのに、その人のトワレの香りはすごく好きなんだよね」

トワレの彼の話をする彼女は、ここ最近にないほどキラキラとしている。

「ね、どうしよう?別れたほうがいいかな?」

急に不安げな顔になって訊ねる彼女。

「で、トワレの彼とは進展してるの?」

質問に質問で返すのは悪いと思ったが、ここは大事なところだ。

「なんとなく、お互い惹かれあっているなぁ……とは感じているけど、はっきり気持ちは確認してない。」
 
なんだ、それなら話は簡単だ。

「別れることはないんじゃない?」

彼女は、ちょっと驚いている。
別れることなんて、いつでもできる。
トワレの彼の気持ちを確かめてからでいい。
新しいコートが欲しくなったからといって、それを手に入れる前に、今まで着ていたコートを捨ててしまうのは愚かなことだ。
 
コートがないあいだに、もし寒い日が続いたら、気の迷いで間に合わせの安物のコートを買ってしまう羽目になるかもしれない。
古い煙草くさいコートは、くたびれて少し薄汚れていたとしても、案外着心地はいいものだ。欲しいと思っているトワレの香りのする新しいコートは、もしかしたら着てみたらしっくり来ないかもしれない。
 
彼女がどちらのコートを選ぶのか、それは私には分からない。
ゆっくり選べばいいと思う。なんなら、しばらく二着のコートをかわるがわる着てみるのもいいだろう。
そのうち、また別のが欲しくなるかもしれないし、もしかしたらコートなんていらなくなる日が来ないともいえない。
とりあえず、新しいコートを試着するところからだ。

冷めた珈琲を飲み干して、私は言った。

「トワレの彼に、好きだと早く伝えなよ。」

- Profile -

東 千絵

東 千絵 (ひがし ちえ)

「プロダクション・アーニング」代表。CM・番組ナレーション、イベント出演、司会、映画・ドラマの方言指導などを手がけるかたわら、地元の演劇集団K-CATに所属。
電子書籍「そうだったのか、日本食」など、ライターとしても活躍の場を広げている。

バックナンバー

10月1日 第三十七回 「またね!」
9月1日 第三十六回 「苦手は、悪知恵で乗りきった」
8月1日 第三十五回 「命の終わらせ方」
7月1日 第三十四回 「お酒と私」
6月1日 第三十三回 「千里の道も一歩から」
5月1日 第三十二回 「女ごころの最後の悪あがき」
4月1日 第三十一回 「ドラマオーディション体験記」
3月1日 第三十回 「逃げ道が見つからないので、きんかんの甘露煮」
2月1日 第二十九回 「そのドアを開けてはいけない」
1月1日 第二十八回 「正月支度」
12月3日 第二十七回 「劇処 シャッフルステージ」
11月1日 第二十六回 「乗っかりそびれたハロウィン」
10月4日 第二十五回 「女って、生きているかぎり闘い続けるものなのよ」
9月3日 第二十四回 手塩にかけたナレーターたちのデビュー
8月1日 第二十三回 大人、大人、言いすぎじゃないの?
7月5日 第二十二回 靴が見つからない
6月8日 第二十一回 地獄の抑止力
5月3日 第二十回 最後まで笑顔
4月3日 第十九回 桜を見ずに逝った人
3月1日 第十八回 うるう年の薔薇
2月1日 第十七回 奥手な女子の初バレンタイン
1月2日 第十六回 愛しの近江町市場
12月1日 第十五回 どのツラさげて
11月1日 第十四回 結婚式の思い出
10月1日 第十三回 輝きの秘密は、言わぬが華
9月1日 第十二回 魔女と仙女と魔法使い
8月1日 第十一回 去っていった古女房
7月1日 第十回 恥ずかしかった誕生日の夜
6月1日 第九回 撮影裏ばなし
5月1日 第八回 歌うシンデレラと、歌えない仙女
4月1日 第七回 台湾、満喫、満足、満腹の旅
3月1日 第六回 熟年サラリーマンのプラトニックラブ
2月1日 第五回 報われないけど、やり甲斐のある仕事
1月1日 第四回 泣きたいときは泣いてもいいのか
12月2日 第三回 持てあました、夢見る権利
10月30日 第二回 煙草とトワレ
10月1日 第一回 ヒロインはいつもリカちゃん